シーシュポスの岩

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

カミュの『シーシュポスの神話』。


岩を転がして山の頂へ押し上げるも、
その重さによって転げ落ちていく岩。
いつ終わることもないそんな刑罰を
神々から課されたシーシュポス。


不条理な苦役の最中にありながらも、
シーシュポスのこの行為には「悦び」
があるとカミュは述べる。


カミュの心が投射されたこの数ページの
評論を読み、そこに投射された自らの心を知る。

カート・ヴォネガット


この作品の存在は、爆笑問題太田光の好きな作品として
何かの雑誌で紹介されていて知った。
SFというスタイルの哲学書、そう評している人がいたが、全く同感。
人生の意味、人間の存在意義について
決して何らかの「答え」を語っている訳ではなく、
著者の考え方もしくはそれらに対するスタンスを
シニカルな表現で描写している。
そのように感じた。
内容が暗くて重い、場面展開が唐突である、
そんなことに触れている人もいるが、
仮にそうだとしてもそんなこと全くもってどうでもいいことだ。
無意味な目的。無意味な数字。シニカルな表現。
その作風はとても魅力的だ。

この作品で印象に残っているか言葉や場面はいくつもあるが、
終盤のこれが二番目に印象に残っている。
(一番目はネタバレになるので)

「だれにとってもいちばん不幸なことがあるとしたら」と彼女はいった。
「それはだれにもなにごとにも利用されないことである」
この考えが彼女の緊張をほぐした。
「わたしを利用してくれてありがとう」と彼女はコンスタントにいった。
「たとえわたしが利用されたがらなかったにしても」
「いや、どういたしまして」とコンスタント。

作中に登場するトラルファマドール星人も魅力的だ。
この地球外生命体は、ヴォネガットの「スローターハウス5」にも登場する。

トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。
死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、
ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、
だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が
死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、『そういうものだ』

(こちらより引用⇒http://www.mieko.jp/blog/2007/04/post_62c4.html

まだ読んでいる最中だが、好きな箇所だ。


良い作品、作家にめぐり会うことができた。
昨年他界してしまったのはとても残念。

Macの中のNewtonの法則。

筋力を使った現実的な動作と
計算で再現された物理的法則の遭遇。


何らかのセンサーによって測定された値が
巧みに視覚化された物理的法則に基づく現象を描き出す。


100円ライターにおいて、点火のトリガーとなるボタンを押す。
発生した火花は、蓄えられている燃焼物質に点火し、炎を生成する。


このMacで行われていることは、100円ライターにおける
物理的法則という因果律を、センサーと計算でわざわざ表現している。
どこか健気さや可愛らしさを感じると同時に、
何者かがそんな法則の再現は容易である、とも主張しているかのようだ。


測定されていることと算出されていることが隠蔽され、
インプットである動作とアウトプットである現象のみが目に見える状態は、
高度に発達すると、確かに魔法と見分けがつかないものになるのかもしれない。

<クラークの三法則>
1. 高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
2. 可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
3. 充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。


<GIZMODE>
http://www.gizmodo.jp/2008/03/mac_5.html

花屋・東信

花屋というべきだろうか、アーティストというべきだろうか。
東信(あずま まこと)は、花や植物を題材にして表現しているひとだ。
数年前に放映されたTBS「情熱大陸」でその存在を知った。
銀座で花屋を営んでいるが、その店に街の花屋のように花は陳列されていない。
ここは、ショーウィンドウに飾る花、影される花、贈り物としての花
を生けて作品を創るアトリエだ。
いつの日か花を贈るような機会があったら、是非お願いしてみたいな、
そんな記憶として頭に残っていた。
ふとしたことから、その記憶が蘇り、近況をネットで調べてみた。
「AMPG」というギャラリーを開いており、ちょうど彼の「式」というシリーズの
展示をしているということで、足のリハビリがてら足を運んでみた。


展示されているインスタレーションは一つ。
透明なアクリルでできた一辺が1メートルの直方体の箱が水で
満たされており、その中心に小さな松が浮かんでいる
というものだ。


入場の際に渡された紙片が渡され、「式」のコンセプトが印字されていた。

 植物は無限造形の中にある
 それらを表現するという事は
 それらを囲む全ての環境に規則をつくり
 はめ込んでゆく作業だと私は思う。


 その無限と規則の間で生まれた摩擦こそが
 自然状態における植物の存在に勝れる
 唯一の可能性ではないだろうか
 この式というシリーズはそれらを
 徹底的に追及する実験的シリーズである


 式は二つのキーワードから成り立っている
 一つ目は松(無限)二つ目は四角形(規則)
 松は植物の中で最も複雑な造形美と強い生命力を持ち合わせている
 すなわちここでは無限という存在である
 それを様々な素材の四角形という規則にはめ込んで摩擦を起こす作業である


 空気とともにある鉄枠
 氷を抱える冷凍庫
 水を抱えるアクリル


 式における植物の生命には
 無限と規則との摩擦と共に
 生きる環境との格闘がある


 その死にものぐるいの摩擦と格闘の軌跡こそ
 式という植物表現の可能性の萌芽である」


一度読んだだけでは直ぐに理解することができず、
自分なりの理解ができるまで何度も繰り返し読んだ。
何か夢中にさせるものがあった。
反芻が終わると、インスタレーションは見なくてもいいかな、そんな気持ちになった。
決して興味や期待が失せた訳ではなく、やはりそれは視覚的にインパクトのある魅力的なものだ。
紙片にあった明確なコンセプトから推測される
アーティストの考え方、物事の捉え方、追及しようとしたもの
そういったものが興味を満たしてしまった。
極端にいえば、視覚化、実体化されたものは必要なかった。
「その死にものぐるいの摩擦と格闘の軌跡」が作品であるとすれば、
その格闘しようとする姿勢の表明に接したことに満足したということかもしれない。



情熱大陸
http://www.mbs.jp/jounetsu/2005/12_18.shtml

<東信 - AZUMA MAKOTO>
http://www.stemandcookie.com/top.html

<JARDIN des FLEURS>
http://www.jardinsdesfleurs.com/

<花屋の日常>
http://blog.stella-web.jp/blog/azuma/

ノウトカソウ

脳と仮想

脳と仮想

脳と仮想 (新潮文庫)

脳と仮想 (新潮文庫)

仮想と現実。
ひとの内面に浮かび上がってくるものはどちらも同じ。

脳という物質に備わった心。
その心と現実や他者との間には、
物質として物理的に隔たれた存在であり
現実や他者との断絶、絶対的な溝がある。
自分の内面に映し出された仮想で、
現実や他者の心を慮る。
それでも交わろう、寄り添うとする心の働き。
そんな心の儚さ。切実さ。
「二十億光年の孤独」どころではない孤独な心。


そんなもう一つの切実な現実において、
表現者の様々な行為は、
彼らが見ている感じている仮想の存在を表そうとする心の動きなのかもしれない。
表現者は、その仮想への共感や評価を得るためではなく、
彼らの内面にある衝動、あたかも内面にいる何者かによる強制、強迫に
従っているだけなのかもしれない。
そうして表現されたものに対峙する時、
鑑賞者はその内面に同じ仮想を映し出そうとし、
また、鑑賞することによって映し出された仮想から
何かを感じるのではないか。


共感したり同意したり
同じ仮想を同じものとして認識する、
それはとてもとても奇跡的なことなのかもしれない。
物事が分からない、他者の心が分からない、
それは至極当然のことなのかもしれない。
そんな奇跡的なバランスで人や現実は成り立っているのかもしれない。

この本から、
表現手法は問わず表現されたものへ接する時の寄り添い方や、
断絶して存在する心の切実さ、儚さ
そういったものを考えた。
日本語を読める人には是非読んでもらいたい本の1つ。
そしてこの本から浮かび上がってくる仮想はひとそれぞれ。

世界卓球2008

テレビ東京で放映している世界卓球2008をたまたま観た。
選手紹介の映像の演出がどこかで観たような印象を受ける。
他局でやっている格闘技でのそれと酷似。
単なる視聴者であるこちらが思わず恥ずかしくなってしまう。
石原家の次男と女子アナのテンションが拍車を掛ける。
選手紹介の映像における演出のあの「テンプレート」を創り出した人はすごい。
あなたの手法を皆さんが真似てますよ。