「キサラギ」

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映画「キサラギ」をDVDで観た。
とても面白い作品だった。
シナリオがとてもよく練られていて感心した。
原作があるようだが、それが良くできているということか。


茂木健一郎のいう「アハ体験」を随所で得ることができる。


この作品を観ていくつかのことを考えた。
ひとつの事象についての解釈は、それを解釈しようとする者によって異なる。
ひとつの文脈についての解釈は、その前後の文脈によって、変わってくる。
仮に、文脈A−文脈B−文脈C、と並んでいる状況において、
文脈Aと文脈Cが何らかの理由で知ることができず、
文脈Bだけしか知ることができるような場合、
それを解釈しようとする者は、文脈Aと文脈Cを自分の都合の良い具合に想像する。
逆の場合では、文脈Bを文脈A、文脈Cの流れから想像することになる。


この作品のネタバレになるので、抽象的に書くが、
ある人物の行動の一部を聞いて、その行動の動機や前後の経過を、
解釈しようとする者は、自分に都合の良く、しっくりとくるように想像する。


至極当たり前のことのようだが、これは人間に備わったとても重要な働きであるような気がする。
この働きは、文脈Bだけを認識し、解釈することはできないことを意味している。
解釈しようとする者は、自分にしかない経験や知識を総動員して、
その文脈Bを解釈しようとする。
(心霊写真で人面に見えたりすることやマジックのトリックもこの働きを利用しているかも)


現代芸術のアーティスト、ジェニー=ホルツァーの作品
「自明の理(TRUISMS)」は、無数の「自明の理」が並んでいる。
たとえば、
「食べ過ぎは犯罪である」
(EATING TOO MUCH IS CRIMINAL)
この文を読んだ人は、この文からその人がもっている経験や知識を総動員して、
様々なことを連想し、これを解釈しようとする。
経験や知識は人それぞれであり、その解釈も十人十色だ。


ここでは、ものごとの捕らえ方は人それぞれである、ということを
述べたい訳でなく、その人が捕らえたものの形は、形そのものを
解釈した訳でなく、それ以外のものによってその形(解釈)が成り立っている
のではないかということだ。


つまり、有形無形を問わず、形があるとされているものは、
それ自体に形があるのではなく、それを形作る様々なものによって
成り立っているのではないだろうか。

上にある画像がそのイメージ。
ここでは、「星」が表現されているように見えるが、
それ以外の何か(ピンク色の部分)によって形作られていて、
「星」というものらしきものが成り立っている。


長々と書きましたが、「キサラギ」は面白い作品です。