頭が固いのかもしれない

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

どこかで読んだ「村上春樹の作品に出てくる人物の台詞は洒落た会話をするのに参考になる」
というような趣旨の文章が気になっていて、「海辺のカフカ」を購入した。
ちなみに、これまで村上作品は読んだことがない。
遠い過去に読んだのかも知れないが、記憶にない。
なので、特にファンという訳ではない。アンチでもない。


まだ読んでいる途中だが、
哲学的な喩えや、
喩える対象とその喩えとの「距離」、
その時代を現すキーワードを登場させること、
現実世界をベースとしてそこに非現実世界が交錯する、

こういったことが、作品全体の「色」を構成し、
それを読み手は楽しむんだろうな、と想像させる。


決して作品を批判するつもりはなく、
文学作品を読む人は、どのようにそれを消化する(解釈する、理解する、把握する)ものなのか、
そしてどう楽しんでいるのか、自分には分からない。
(文学の存在意義を否定している訳でもないです)


村上作品に限らず、文学作品に関して共通してある疑問は、
その作品を構成している文章は全て必要なのか、ということだ。
文学作品を創ったことがないので、書き手の気持ちが分からないのだが、
作品全体が作り出す「色」を表現するのにそれらの文章は全て必要なものなのだろうか。
やはり絵画のように、全体のバランスのようなものも文章表現でもあるのだろうか。
必要だから、その文章はその場所にあるんだろうか。
必要だから、その場所に置いているのだろうか。
海辺のカフカ」では、わざわざその場所に置いているという印象を受けた。
書き手の意思によって書かれたものであるから、当然ではあるが、露骨にそれを感じた。
こういったことが良さなのかもしれないが。


若かりし頃は、構成している文章の表面を読まずに見るだけで、
おそらく喩えなんかは全く読まず、ストーリーの結論だけを見届けて、
読んだことにしていて、当然面白さを全く感じることはなかった。
近年は作品にこめられたメッセージとか作品全体の「色」を楽しむようにしているが、
文学作品に対して依然としてそういった疑問は残っている。


ノンフィクションばかり読んでいて、想像力もなくなり、
頭が理屈でしか動かない頭の固い人になってしまったのかもしれない。
というかそもそも文学作品を読む資格なし(笑)?
(あ、でも文学作品という括りは広すぎたかも)